オルネッラ・ヴァノーニ Ornella Vanoni
ミーナ、ミルヴァと並ぶカンツォーネ3大ディーヴァの1人、オルネッラ・ヴァノーニ。“知性派の歌姫”と呼ばれ、ナポリ歌謡からブレヒト、ジャズ、ボサノヴァに至るまで、多種多様な音楽ジャンルを独自の洗練されたエレガントなスタイルで歌いこなしてきた。最近では往年のヒット曲“L'appuntamento(逢びき)”がハリウッド映画『オーシャンズ12』(04)のテーマ曲として使われたので、その名前や歌声に聴き覚えのある人も少なくないかもしれない。
ヴァノーニの魅力はなんといっても“エレガンス”である。アグレッシブで泥臭い庶民派のミーナ、演劇的でスノッブなミルヴァと違い、スケールの大きな歌声の中にも繊細な気品と大人の色香を感じさせるのが彼女の持ち味だ。
基本的にはカンツォーネ畑の人だが、そのレパートリーは実に幅広い。中でもブラジル音楽には強い思い入れがあるようで、トッキーニョやヴィニシウス・ヂ・モライスと共演した“La voglia La pazzia L'incoscienza L'allegria(希望、狂気、無意識、歓び)”というボサノヴァ・アルバムの傑作も残している。
また、バカラックやブレル、アズナブールなどの作品も好んで歌っており、そうしたある種のラウンジ的なお洒落感覚というのも、ヴァノーニのレコードの面白さと言えるかもしれない。そこには、デビュー当初から彼女の作品を支えてきた稀代のカンタウトーレ(シンガー・ソングライター)、ジーノ・パオーリの影響があることも見逃せないだろう。
ヴァノーニの魅力はなんといっても“エレガンス”である。アグレッシブで泥臭い庶民派のミーナ、演劇的でスノッブなミルヴァと違い、スケールの大きな歌声の中にも繊細な気品と大人の色香を感じさせるのが彼女の持ち味だ。
基本的にはカンツォーネ畑の人だが、そのレパートリーは実に幅広い。中でもブラジル音楽には強い思い入れがあるようで、トッキーニョやヴィニシウス・ヂ・モライスと共演した“La voglia La pazzia L'incoscienza L'allegria(希望、狂気、無意識、歓び)”というボサノヴァ・アルバムの傑作も残している。
また、バカラックやブレル、アズナブールなどの作品も好んで歌っており、そうしたある種のラウンジ的なお洒落感覚というのも、ヴァノーニのレコードの面白さと言えるかもしれない。そこには、デビュー当初から彼女の作品を支えてきた稀代のカンタウトーレ(シンガー・ソングライター)、ジーノ・パオーリの影響があることも見逃せないだろう。
1934年9月22日ミラノの生まれ。父親は製薬会社の社長で、彼女はスイス、フランス、イギリスで教育を受けている。思春期に肌のトラブルで悩んだ経験があることから、美容師を目指していたこともあるという。53年にミラノ小劇場の演劇アカデミーへ入学し、そこで高名な舞台演出家ジョルジョ・ストレーレルに師事する。
卒業後、歌手として舞台の幕間で歌うようになり、56年には女優としてもデビュー。恩師ストレーレルの指導のもと、古典歌謡やブレヒト作品などを歌って高い評価を得るようになった。そして、その評判を聞きつけた老舗レコード会社リコルディとも契約を結んだ。
そんな彼女にとって大きな転機が訪れたのは1960年。当時ミーナのヒット曲などを数多く手掛けていたシンガー・ソングライター、ジーノ・パオーリとの出会いだ。パオーリはジェノヴァ派と呼ばれる音楽ムーブメントの先駆者で、シャンソンやジャズの要素を取り入れながら、従来のカンツォーネとは一線を画する洗練された音楽を生み出していた。彼はヴァノーニの才能を高く買い、以降現在に至るまでの長いコラボレーションが始まる。
かくして、パオーリはヴァノーニのために次々と楽曲を書き下ろす。61年に発表した“Senza fine(目的もなく)”が大ヒットし、64年には“Amore mio(愛しい人)”がナポリ音楽祭で準優勝に輝く。さらに、66年のサンレモ音楽祭参加曲“Io ti daro di piu(あなたに全てを捧げる)”は彼女にとって最大のヒット曲となり、アメリカの歌手ヴィッキー・カーによる英語カバーも発売された。
67年にはレコード会社をアリストンへと移籍。68年に発売した“Ai miei amici cantautori(親愛なるシンガー・ソングライターへ捧ぐ)”は、ジョン・レノンやジョアン・ジルベルトなど自らが多大な影響を受けたシンガー・ソングライターの作品をカバーしたアルバムで、イタリア音楽界における最初のコンセプト・アルバムと呼ばれている。
70年にリリースした“L'appuntamento(逢びき)”もヒット・チャートで1位を獲得。歌手として不動の地位を築いたヴァノーニは、74年に自らのレコード会社ヴァニラを設立する。76年には、先述したトッキーニョ、ヴィニシウス・ヂ・モライスとのコラボ・アルバムをリリース。翌年には雑誌「プレイボーイ」のイタリア版でヌード・グラビアを発表して話題を集めた。
さらに、81年には“Vai, Valentina(行きなさい、ヴァレンティナ)”と“Musica, Musica(音楽よ、音楽よ)”の2枚のシングルが大ヒット。89年には久々にサンレモ音楽祭へ参加して話題となったが、90年代に入ると音楽活動やテレビ出演も次第に少なくなっていく。
しかし、97年に発表したジャズマン、パオロ・フレスとのコラボ・アルバム“Argilla(土)”が大ヒット。99年にはサンレモ音楽祭にも復帰し、60~70年代のヒット曲をカバーしたアルバム“Un panino una birra e poi...(パンとビールとそれから・・・)”(01)と“E poi...la tua bocca da baciare(そして・・・あなたの唇にキッスを)”(01)もベスト・セラーとなった。
04年にはジーノ・パオーリとのコンビでコンサート・ツアーも大成功させ、今年で75歳を迎える現在もイタリア音楽界の第一線でバリバリ活躍している。先日のサンレモ音楽祭でも、若手女性歌手シモーナ・モリナーリと“Egocentrica(自己中心的)”デュエットを披露し、さらに故ルイジ・テンコの名曲“Vedrai, Vedrai(ヴェドライ・ヴェドライ”を歌って喝采を浴びたばかりだ。
ちなみに、私生活では元歌手で俳優のルチオ・アルデンツィと60年6月6日に結婚し、長男クリスチャンをもうけたものの、63年に離婚している。
卒業後、歌手として舞台の幕間で歌うようになり、56年には女優としてもデビュー。恩師ストレーレルの指導のもと、古典歌謡やブレヒト作品などを歌って高い評価を得るようになった。そして、その評判を聞きつけた老舗レコード会社リコルディとも契約を結んだ。
そんな彼女にとって大きな転機が訪れたのは1960年。当時ミーナのヒット曲などを数多く手掛けていたシンガー・ソングライター、ジーノ・パオーリとの出会いだ。パオーリはジェノヴァ派と呼ばれる音楽ムーブメントの先駆者で、シャンソンやジャズの要素を取り入れながら、従来のカンツォーネとは一線を画する洗練された音楽を生み出していた。彼はヴァノーニの才能を高く買い、以降現在に至るまでの長いコラボレーションが始まる。
かくして、パオーリはヴァノーニのために次々と楽曲を書き下ろす。61年に発表した“Senza fine(目的もなく)”が大ヒットし、64年には“Amore mio(愛しい人)”がナポリ音楽祭で準優勝に輝く。さらに、66年のサンレモ音楽祭参加曲“Io ti daro di piu(あなたに全てを捧げる)”は彼女にとって最大のヒット曲となり、アメリカの歌手ヴィッキー・カーによる英語カバーも発売された。
67年にはレコード会社をアリストンへと移籍。68年に発売した“Ai miei amici cantautori(親愛なるシンガー・ソングライターへ捧ぐ)”は、ジョン・レノンやジョアン・ジルベルトなど自らが多大な影響を受けたシンガー・ソングライターの作品をカバーしたアルバムで、イタリア音楽界における最初のコンセプト・アルバムと呼ばれている。
70年にリリースした“L'appuntamento(逢びき)”もヒット・チャートで1位を獲得。歌手として不動の地位を築いたヴァノーニは、74年に自らのレコード会社ヴァニラを設立する。76年には、先述したトッキーニョ、ヴィニシウス・ヂ・モライスとのコラボ・アルバムをリリース。翌年には雑誌「プレイボーイ」のイタリア版でヌード・グラビアを発表して話題を集めた。
さらに、81年には“Vai, Valentina(行きなさい、ヴァレンティナ)”と“Musica, Musica(音楽よ、音楽よ)”の2枚のシングルが大ヒット。89年には久々にサンレモ音楽祭へ参加して話題となったが、90年代に入ると音楽活動やテレビ出演も次第に少なくなっていく。
しかし、97年に発表したジャズマン、パオロ・フレスとのコラボ・アルバム“Argilla(土)”が大ヒット。99年にはサンレモ音楽祭にも復帰し、60~70年代のヒット曲をカバーしたアルバム“Un panino una birra e poi...(パンとビールとそれから・・・)”(01)と“E poi...la tua bocca da baciare(そして・・・あなたの唇にキッスを)”(01)もベスト・セラーとなった。
04年にはジーノ・パオーリとのコンビでコンサート・ツアーも大成功させ、今年で75歳を迎える現在もイタリア音楽界の第一線でバリバリ活躍している。先日のサンレモ音楽祭でも、若手女性歌手シモーナ・モリナーリと“Egocentrica(自己中心的)”デュエットを披露し、さらに故ルイジ・テンコの名曲“Vedrai, Vedrai(ヴェドライ・ヴェドライ”を歌って喝采を浴びたばかりだ。
ちなみに、私生活では元歌手で俳優のルチオ・アルデンツィと60年6月6日に結婚し、長男クリスチャンをもうけたものの、63年に離婚している。
オルネラ・ヴァノーニ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/07/31 01:59 UTC 版)
略歴
ミラノの製薬企業を経営する富裕な一家に生まれ、ソルボンヌ大学、ケンブリッジ大学に留学。その後ミラノに戻り、1950年代後半から女優、歌手として活動。1960年、著名な演出家ジョルジョ・ストレーレルの指導のもとに舞台女優として本格的にデビューした。歌手としても1961年の「Cercami チェルカミ」や、ジーノ・パオーリの作曲による「Senza fine 恋に終わりなく」がヒットし、1964年には「Tu si na cosa grande 素敵なあなた」でナポリ音楽祭に優勝する。またサンレモ音楽祭にも連続出場し、「Abbracciami forte 強く抱きしめて」(1965年)、「Io ti darò di più 生命をかけて」(1966年)、「La musica è finita 音楽は終わったのに」(1967年)、「Casa bianca カーザ・ビアンカ」(1968年)、「Eternità 永遠」(1970年)でそれぞれ入賞している。1970年に彼女の最大のヒットとなった「L'Appuntamento 逢いびき」は2004年の映画「オーシャンズ12」に使用され、また日本ではBS日本の番組「小さな村の物語イタリア」のオープン・エンドテーマとして親しまれている。