2008-09-01

高島 野十郎

高島野十郎(たかしま やじゅうろう、1890年 - 1975年9月17日)は、明治後期~昭和の洋画家。流行に迎合せずひたすら写実に徹した画風で、睡蓮や月、蝋燭の連作など、風景画や静物画を主に製作した。蝋燭の絵は久世光彦著の『怖い絵』で、「唸っている」と評されている。

経歴

1890(明治23)年、福岡県三井郡合川村(現在の久留米市東合川)の裕福な醸造家の四男に生まれる。本名は高嶋弥寿(たかしま やじゅ)。野十郎とは、『野獣のごとく生きる』という意味のペンネームといわれている。

第八高等学校を経て、親の説得で東京帝国大学でその年に発足したばかりの農学部水産学科に進学、同科を首席で卒業するも恩賜の銀時計を辞退し絵画の道を選び、以降師につくこともなく、特定の美術団体へ属することもせずに、ただひたすら自らの画業に没頭した。

一説によると同郷の先達、青木繁に感化され、画家を志したといわれる。ちなみに青木繁と親交のあったことで知られる詩人の高島宇朗(泉郷)は、野十郎の長兄にあたる。

生涯独身で過ごした野十郎は晩年、東京オリンピック絡みの道路拡張整理に巻き込まれて東京目黒のアトリエを強制立ち退きさせられたのに対し「どうせ引っ越すなら区画整理などない田舎へ」と、千葉県柏市郊外の田園地帯に居を定める一方、フランスを含めた全国各地への写生旅行や巡礼を行い、数回の個展のみを作品発表の場とする清貧の生活を送った。

1975(昭和50)年、千葉県野田市の老人ホームで死去。享年85。

画集

[編集] 評伝



高島野十郎の森

高島野十郎は光の森。
高島野十郎の描く森は、まるで画家自身が光景に吸い込まれてしまったかのように細部で構成された緻密な世界で、ある種、私的で、内面的な「無意識の森」と 呼べるようなものです。われわれはその距離が喪失したかのような森を彷徨い歩くように、木々の細部に眼を凝らすことでしょう。