2011-01-23

ポスト構造主義


ポスト構造主義

ポスト構造主義(ポストこうぞうしゅぎ)は1960年後半~1980年後半ごろにフランスで誕生した思想運動の総称であり明確な定義や体系は存在しない。「反」構造主義ではなく、文字通り「post(~の後に)構造主義」と解釈すべきであるが、主にアメリカでの名称でありフランスではあまり用いられなかった。代表的な思想家はジャック・デリダロラン・バルトジャン=フランソワ・リオタールジル・ドゥルーズなど。ただしこれら思想家の間には思想的な共通性や関連性は必ずしもなく、これらの思想家で自らをポスト構造主義者と規定した者は一人もいない。

概要 [編集]

記号論で示されるように言語は万能でなく万人に受け入れられているシニフィアンを再生産するときに限り意思疎通が可能である。すると言語の構造を破綻させることで言語から成り立っているイデオロギーは意味をなくす。ポスト構造主義は政治的な問題、科学における自然法則、宗教上の神、物語のストーリーなどの、形而上学的な存在を保証しない前提での信念体系について、言語に従属しているというだけで超越的シニフィエの資格を失わせることができる。
自己の信念や観念を強く主張する場合に、それと反対の概念が絶対に意見に含まれないと言い切ることはできない。正命題は反命題があることで成立しないとは言えない。たとえば「彼女は仕事において性別で差別された」という主張に対して「主語(彼女)の中に男女という二項対立が含まれていることから貴方の発言は男女差別だ」ということも可能である。
形而上学に基づいた批評は、相手の論理の弱点を探し相手主張と矛盾する点を突きつけることであったが、ポスト構造主義者は主体を脱構築することで、深刻な問題に対して問題の外にあることが問題を構成しており、その問題には客観性がなく意味決定不能として、解決の提示をする必要もない。シニフィエの定義を論じようと試みても言葉を用いる限り最終的には言葉の定義の議論にしかならない。シニフィアンとシニフィエはバラバラであり純粋な意味や絶対的な主張は存在し得ない。しかしながら我々は日々、膨大な意味を共有し、会話し、物を書いている。ポスト構造主義は、意味や言葉がマスコミや権力者の物ではなく常に一時的なものであり、よりよい物に代替するための進化の一形態であるにすぎず、それは我々個人が作り変えることのできるものある、ということを教えてくれる。

成り立ち [編集]

1966年、ストラスブール大学で端を発した学生運動はフランス全土に拡大していった。そして1968年5月、労働人口の3分の2が一斉にストライキを起こしてフランス政府は体制が崩壊する寸前まで追い込まれた。しかし労働者の側にあるはずのフランス共産党(PCF)がストライキを押さえ込んだことから民衆による反体制運動は分裂ののち収束。保守勢力は野党勢力を分断して、総選挙の後は以前よりも体制を確固たるものとした。この五月革命と呼ばれる熱狂的な政治事件の終結が、フランス知識人の正統派マルクス主義への幻滅を後押しした。デリダのテキストは、このような状況下書かれた政治的実践であり、ポスト構造主義はマルクス主義が、政治的に完全に終わったものとの立場から始まっている(ただし形而上学的にマルクス主義を論破しているわけではない)。

文芸批評 [編集]

ポスト構造主義はそれまでの理想的な読者のモデルを否定する。優れた読者であれば、あらゆる社会的な拘束から自由であり、純粋に客観的な視点で作者の意図を組みとることができるとされてきた。しかし記号論によると文学的テキストであっても、それはシニフィアンの集合に過ぎず、作者は表現したいことの意味を主張することができない。作者の意図は作者自身でさえ決定不能であって、文学テキストに唯一の目的、唯一の意味、または唯一の存在があるという考えは拒絶される。バルトは、どんなテキストにも複数の意味があり、作者は作品の意味を決定する起源でなく、たまたま物を書いている人間以上ではありえないとした。代わりにすべての読者が特定のテキストのために新しい個々の目的、意味、および存在を創造する。
作品の想像上の意味や概念はシニフィアンを繰り返し述べることにより差異によってしか表現できない。ポスト構造主義時代の文芸批評(評論)では、いわゆる行間を読んではならず、書かれたものだけからテクストを見なければならない。よりテキストの理解が深まるだろうとして作者の生い立ちや雑文、あとがき、日記など、テクスト以外のものを読んではならない。バルトは「作者の死」を主張した。その代償によりテクストの意味の起源として「読者の誕生」が起こる。しかしこの「読者」は独立した個々の私個人を指すものではなく、批評で読者の主観を主張しあえと言っているのでは決してない。批評には読者がテクストから得た視点、姿勢、心情などを含めてはならない。現代的な作品の批評では、形而上学的記述と二項対立を廃し、テクストそれ自身の良い悪いという評価をしてはならない。

ポストモダンとの違い [編集]

リオタールが『ポストモダンの条件』(1984)を記した前後から、ポスト構造主義はポストモダンと呼ばれるようになるが、内容を見てもポスト構造主義との大きな違いはない。ポストモダンがポスト構造主義と異なったテーマであるという特定はいまだにできずにおり、ポスト構造主義者あるいはポストモダニストという名称は他者(あるいは本人)がそのように呼んでいるということにすぎないと考えられる。

参考文献 [編集]

  • キャサリン・ベルジー 『ポスト構造主義』 折島正司訳、岩波書店、ISBN 4000268694

関連項目 [編集]