2011-01-25

ジャック・デリダ / Jacques Derrida




ジャック・デリダ

ジャック・デリダJacques Derrida,1930年7月15日 - 2004年10月8日)は、アルジェリア出身のフランスユダヤ哲学者。一般にポスト構造主義の代表的哲学者と位置づけられている。エクリチュール(書かれたもの、書法、書く行為)の特質、差異に着目し、脱構築(ディコンストラクション)、散種差延等の概念などで知られる。フッサール研究から出発し、ニーチェハイデッガーを批判的に発展させた。哲学のみではなく、文学建築演劇など多方面に影響を与えた。またヨーロッパだけでなくアメリカ日本など広範囲に影響を与えた。代表的な著作に『グラマトロジーについて』『声と現象』『エクリチュールと差異』などがある。

経歴 [編集]

1930年から1967年まで [編集]

1930年7月15日アルジェリアのEl Biarにユダヤ系フランス人家庭に生まれた。父はジェオルジェット・エメ・デリダ、母はスルタナ・エステル・サファ[1]。家族の祖先はセファルディムであり、1870年にフランス国市民権を取得した。五人兄弟の三男で両親はハリウッドの映画俳優にちなんでジャッキーと名付ける。のちパリに出て、「正しい読み」としての「ジャック」に本人が変更した.[2]
リセではサッカーを好み、将来の夢はサッカー選手だったという。精神的な危機のなか、ルソーやアルベール・カミュ、ニーチェやアンドレ・ジッドなどを読む。パリに出てリセ・ルイ・ル・グランに学ぶが、なじめなかったという[3]。二度の受験に失敗したのち、1951年、エコール・ノルマル・シュペリオール(高等師範学校)に入学する。エコール・ノルマルではルイ・アルチュセールやミシェル・フーコーの講義に出席し、のち友人となった。このころにハイデガー、キルケゴールなどを読書後、フッサール現象学を研究することを決意し、ベルギーのルーヴェンにある「フッサール文庫[4]」に行く。1954年のアグレガシオン(教授資格論文)はフッサールについてのものだった。のち1990年に『フッサール現象学における発生の問題』として出版。教授資格論文の指導教官はジャン・イポリットとモーリス・ド・ガンディヤック[5]で、ほかにこの時点ではチャン・デュク・タオ[6]や、数学者・哲学者のジャン・カバイユ[7]にも影響を受けた。アグレガシオンには落第するが1956年に合格する。ハーヴァード大学に留学し、1957年には精神分析を研究していたマルグリット・オークチュリエ[8]ボストンで結婚。同年より1959年までのアルジェリア独立戦争中には軍事学校で兵士たちにフランス語や英語を教えていた。
ジャック・ラカンの熱心な生徒だった作家フィリップ・ソレルスの主宰する「テル・ケル」グループと親交をむすぶ。1960年から1964年にかけてソルボンヌ大学で哲学講師。1962年にはフッサールの『幾何学の起源』に長大な序文をつけ翻訳出版し、ジャン・カバイユ賞(エピステモロジー賞)受賞。注目を集める。1963年に長男ピエールが生まれる。アルチュセールとイポリットの推薦で1964年から高等師範学校の哲学史講師。のち同校哲学教授となり、1984年までつとめる。1966年にはジョンズ・ホプキンス大学で教鞭をとり、当時米国で開催された会議での発表"Structure, Sign, and Play in the Discourse of the Human Sciences(人間科学の言説における構造、記号、遊戯)"で有名になる一歩を踏み出した。同会議でポール・ド・マンやジャック・ラカンと知り合う。1967年には次男ジャンが生まれる。同年、『グラマトロジーについて』『声と現象』『エクリチュールと差異』を続々と発表し、以降、哲学界に影響を与え続けた。

1968年以後、哲学教育運動 [編集]

1968年以後、デリダは1970年代から80年代にかけて哲学教育運動を展開する。1968年の五月革命以降、当局は時間数を削減したり、必須制を自由選択制にしたり、教員数を削減するなど哲学教育を抑圧(弾圧)し、産業社会の要求にそう実用的な教育政策方針をとった。これに対してデリダら教員と学生あわせて30名ほどで1974年4月、この問題に対処するための「哲学教育研究グループ」(Groupe de Recherches sur l’Enseignement PHilosophique・GREPH)を結成した[9]。以降、文部省改革案への反対表明など、さまざまな批判運動を展開する。このなかでデリダは、哲学教育を削減するのではなく、むしろ時間数を増やし、学習開始年齢を引き下げよという提言を行なった。デリダはインタビューのなかで「17歳か18歳以前に哲学を学ぶことは不可能であり、危険であると、プラトン以来信じられてきましたが、これには一体、どんな政治的ないし性的理由があるのでしょう?」と問いかけ、「フランスで第六学級・第七学級と呼ばれている児童、10歳や11歳の子供たちに哲学を教えてみましたが、非常に成功しました。若い少年少女たちは哲学に興味をもつだけでなく、哲学を必要とし、それを楽しんでいました。難解なテクストと思えるものにも十分取り組んでいました」と自身の実験を報告している[10]。1978年12月、仏語および英語圏アフリカ哲学者連合国際コロキウムで「哲学教育の危機」を講演。1979年6月、ソルボンヌで公開討論会「哲学の三部会」が開かれ、委員の中には、デリダ、ドゥルーズ、リクール、ジャンケレヴィッチ、シャトレ、ナンシー、ラクー=ラバルトらがいた。1981年に成立したミッテラン政権はこの運動を支持し、1983年、「国際哲学コレージュ」(Collège International de Philosophie)が創設された。デリダは初代院長に就任、フランソワ・シャトレらとともに運営を行う。翌年、J-F.リオタールが院長に就任。こうしたデリダの教育運動はのち『哲学への権利について/法から哲学へ』(1990年)にまとめられた。

1980年代以降 [編集]

1983年には映画監督Ken McMullenの映画「ゴーストダンス」でテキスト提供や出演もおこなう。1984年から2004年に没するまで、パリの社会科学高等研究院(Ecole des Hautes Etudes en Sciences Sociales:EHESS)で研究ディレクターを務めた。
1986年カリフォルニア大学アーヴィン校(UCI)人文学教授。なおデリダ死後、生前UCIに非公式に遺稿を譲与する約束をしていたとして、大学と遺族との間に法的折衝があった.[11]。ほかアメリカではイエール大学、ニューヨーク大学、ストーニー・ブルック大学、新社会科学研究院(The New School for Social Research)などでも教鞭をとった。 アメリカ学士院(American Academy of Arts and Sciences)会員。2001年フランクフルト大学からアドルノ賞受賞。ケンブリッジ大学、コロンビア大学、新社会科学研究院、エセックス大学、ルーヴェン大学、ウィリアムズ学院、シレジア大学から名誉博士号授与。ケンブリッジ大学名誉博士号授与の際には大変な議論が起こり、クワインらが反対したことは有名である[12] 。
2002年映画『デリダ』出演。2003年 膵癌に罹り、2004年に没す.[13]

思想 [編集]

構造と生成(現象学と構造主義) [編集]

デリダは現象学と構造主義から強い影響を受けつつ、両者を批判するなかで思想を構築していった。現象学から発生的観点を継承し、はじまり・起源の問題を批判的に論じた。同時に発生的アプローチに対しては構造主義的な観点から批判した。フッサールの「意識への直接的な現れ」を基準とする現象学的方法についてデリダはのちに「現前性の形而上学」の一事例として批判的に参照するようになる。
1962年、フッサールの論文への序説『「幾何学の起源」序説』について後年のインタビューでデリダは、この著作のプロブレマティックにはすでに「差異・差延」のアイデアがあり、意識、現前、科学、歴史、科学の歴史、起源の消失または遅延などについて論じており、『声と現象』と連携したものであるといっている[14]。なおデリダは『声と現象』を自分の著作のなかではもっとも好きだといっている[15]
論文「発生、構造、現象学」(1959)では「構造は生成を持つべきではないのか?そして起源、すなわち発生点は、生成するためにすでにあらかじめ構造化されているのだろうか?」と問うている[16]。デリダはあらゆる構造的ないしサンクロニック(共時的)な現象は歴史を持ち、そして構造はといえば、その発生ないし生成の側面も考えないと理解することはできないとする[17]

差延 [編集]

詳細は「差延」を参照

脱構築(ディコンストラクション) [編集]

詳細は「脱構築」を参照
なお「脱構築」という訳語は英文学者の由良君美が考案した[18]

グラマトロジー [編集]

『グラマトロジーについて』ではジャン・ジャック・ルソーの言語起源論を、およびクロード・レヴィ=ストロースの「戦闘的ルソー主義」[19]、そして「人間科学」という概念を緻密に批判した。グラマトロジー (Grammatologie)とは「文字アルファベット音節区分、読解およびエクリチュールについての論説」(リットレ辞典)であり、アメリカの古代史・アッシリア学者イグナス・ゲルブ(Ignace Jay Gelb)の「A Study of writing,the foundation of grammatology(1952)が初出であるという[20]。しかゲルプのこの本は「一元的起源と多元的起源にかんする仮説を提出しているにもかかわらず、エクリチュールの古典的歴史のモデルに対応している」という[21]プラトンの「パイドロス」や「メノン」からヴィーコ、ジョン・ウィルキンス、ロック、ウォーバートン、ライプニッツ、キルヒャー、デカルト、ソシュール、フッサール、レヴィ=ストロースにいたるまで連綿と続くある思考形式のパターンすなわち、エクリチュール(書き言葉・書字・書記)を代補(サプルマン。英語でサプリメント)とし、パロール(話し言葉)を真なるものとする音声ロゴス主義・音韻論主義(Phonologism)を批判し、西洋形而上学が一貫して現前性を真理の基準としてきた(現前の形而上学)ことを指摘する。こうした一連の哲学史の脱構築の手法の先例にはハイデガーの哲学史研究があり、ハイデガーは『ニーチェ』において、ニーチェを西洋形而上学の最後の哲学者とみなしている。なおデリダは同じような言い方をハイデガーにもふりあてている[22]。デリダはそうしたハイデガーの仕事を晩年に渡るまで詳細に読解しながら、思考を続けた。 デリダはまた「グラマトロジーは人間科学のひとつであってはならない。なぜならそれは人間という名前にたいする問いを定立するからである」[23]とし、領域科学に構造的に内在する「ヒューマニズム(人間中心主義)」を批判した。
当時、フランスをはじめとして構造主義は知的流行として一大流行していたが、デリダのこれらの批判的な仕事を巡る議論によって、のちに「ポスト構造主義」または「ポストモダン」という潮流の首領としてデリダはみなされるようになる。ただし、デリダ自身は、それらの呼称を自称していない。

1970年代以降 [編集]

1970年代には、以降、「散種」『弔鐘』(1974)『絵葉書 ─ソクラテスからフロイトへ、そしてその彼方』(1980)を著述、『弔鐘』ではジュネとヘーゲル論を交差させて論じている。
また「有限責任会社」や「署名、出来事、コンテクスト」などの論文でオースティンの言語行為論を批判的に検討し、英米系の分析哲学界と議論をした。なかでもジョン・サールとは応酬を繰り返した。
1987年にはCIPH会議において「ハイデガー:開かれた問い」と題した論考を発表し、のち『精神について』と題して出版。1927年の時点では「精神(ガイスト)」はハイデガーにとって哲学的な概念のひとつにすぎなかったのに、1933年のナチスへの加担以降「ドイツ的精神」を思考するようになるどころか、それを体現するかのような身振りをはじめるが、デリダはそうしたハイデガーにおける思想の変遷を辿りながら、人間と動物の分割、技術、哲学の本質としての問いの特権性の三つの要素に重点を置いて分析した。この『精神について』はヴィクトル・ファリアスらのナチス加担論への批判的応答を動機としたものであったが、1980年代にゼミナールの研究主題であった「哲学とナショナリズム」において進められた思考をまとめた最初の著作であった。以降、政治哲学的な作業にデリダは集中していく。 デリダは1990年代に「政治的転回(転向)」をしたとも評され、ベンヤミン論を含む「法の力」(1990)、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」をひとつの症例として批判的に考察した部分を含む「マルクスの亡霊たち」(1994)、カール・シュミットを詳細に論じた「友愛のポリティックス」(1994)などを発表していく。
政治問題を語ると同時に倫理学的な作業も行い、とりわけ聖書におけるアブラハムとイサクの犠牲の問題を『死を与える』『歓待について』などで論じる。『死を与える』ではヤン・パトチカ(パトチェカ)が読解された。この時期の主題には、法、正義、責任、友愛、歓待などが論じられ、法哲学や社会科学、生命倫理の領域にも影響を与える。またデリダの倫理論にはエマニュエル・レヴィナスの影響が強い。またこの後半期にはブランショ論や、ツェラン論、詩についても著述している。

論争・批判 [編集]

デリダは以下の 思想家哲学者と論争し、または批判を受けた。
  • リクール
  • ハーバーマス
    • ハーバーマスは(『近代的ディスクルス』においてデリダをニヒリストと論難している。ハーバーマスとは911テロ後、共闘。ジョヴァンナ・ボッラドリと三者で『テロルの時代と哲学の使命』(邦訳、岩波書店、2004年)を刊行した。
  • ガダマー
    • ガダマーが1981年にフランスで行った講演「テクストと解釈」についてデリダがコメント「権力への善き意志」などを発表し、論争にいたった[24]。ガダマーは解釈においては、著者の意図を正しく理解しようとする「よき意思」が必要であるとしたのにたいして、デリダは、ガダマーのいう「善き意志」は、意志を絶対的・最終的な審級とする意志の形而上学ではないかと批判し、「あらかじめ暴力を行使すること」とした。またデリダはガダマーが前提する全体性の概念を批判する。中山元によれば「まったくかみ合わない論争」であったが、それまでドイツでは「デリダの思想の内在的な批判は行われていなかった」ため、デリダの著作が検討されるきっかけになった[25]。また中山は「ガダマーが講演の中で、比喩や地口などを批判しているのは、デリダを念頭においてのことだろうから、ガダマーはもう少し真面目に(笑)デリダ批判をすべきだったろうが、ガダマーが身をかわしたので、デリダの再批判の焦点がぼけた」とも評している[26]
  • フーコー
    • 『狂気の歴史』にたいしてデリダが1963年コレージュ・ドゥ・フィロゾフィックにおける書評講演『コギトと「狂気の歴史」』[27]を行った。フーコーは「狂気の歴史」第二章の冒頭において、デカルトのコギトが狂気や異常さ、錯乱、不条理などを哲学の領域の圏外へと排除された旨の記述をしているが、このフーコーのデカルトの言及についてデリダは、まず、「デカルトの意図に関してそこに提出されている解釈は正当化されるか?という、いわば偏見の問題」を提起し、この偏見について、「ひとはシーニュ(兆候・記号)を理解しているだろうか?デカルトがいい、またいおうとしたことを理解しているだろうか」としながら、兆候を理解するには、たとえば精神分析家は患者のことばをしゃべらなくてはならないとする[28]。また「デカルトの意図が兆候として理解されれば、それの属する歴史的構造とそく関係を持つことになるだろうか?つまり、ひとが付与しようとする歴史的意味を持つだろうか?」と問いを出す。次にデリダは、「フーコーの企図はあまりに豊かであり、ひとつの方法とか、語の伝統的な意味でのひとつの哲学によってさえ先立たれるにはあまりに多方面にわたる兆候を示している」[29]として「デカルト的な型のコギトがコギトの最初にして最後の形ではない」という。またフーコーが「近づきえない原初的な純粋さ」として狂気を語り、理性がロゴス的絶対者に依拠することのない(頼るべきもののない)相対性に自身を位置づけることについて、しかし誰がその依拠不可能性を語るのか?誰がそのような言表不可能な狂気について語りうるのか?」と問いかける。フーコーはこのような語りの困難について鋭敏ではあるが、この問題については方法論的・哲学的な前提条件としての特徴を認めようとしていないなどとデリダは批判した[30]。フーコーはこうしたデリダに批判に対して「私の身体、この紙、この炉[31]」を執筆し、また「デリダへの回答[32](1971)」を日本の雑誌「パイデイア」に寄稿した。デリダの批判に激怒したフーコーは以後、絶交し、デリダの論文掲載を編集者として拒否したこともあった[33]。またデリダの論敵であったサールとの対談ではデリダの方法を「テロリスト的な蒙昧主義」と評した[34]。しかしフーコーはデリダがのちにチェコスロバキアで収監されたときには救援活動を行った。
  • ジョン・サール
    • デリダ/サール論争は、1971年から1977年にかけて行われた。中山元によればサール(オースティン)の「真面目」への批判は、1981年にガダマーとの論争における「よき意思」への批判と連携している[35]。サールはフーコーの「テロリスト的な蒙昧主義」という表現をうけて、「デリダはあまりに曖昧に書くため、読者はなにを理解したのかいうことができないほどであり、これが蒙昧主義ゆえんである。また、デリダを批判すると、彼は必ず「あなたは理解していない」つまり「あなたは馬鹿」という。これがテロリズム的側面である」といっている[36]
  • ケンブリッジ大学での名誉博士号授与の選考委員会ではクワイン、デヴィッド・アームストロング、ルネ・トムら18人の教授から反対表明が出され、デリダの仕事は明晰さと厳密さの基準を満たしていない、まるでダダイストのようなトリッキーでギミックに満ちたものであり、この哲学は虚偽かトリヴィアルなものにすぎない、真理や理性の価値への挑戦であり、授与に値しないとした[37]
  • ノーム・チョムスキーは単純なアイデアをむやみな修辞で記述しているとした。
  • ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインは、ケンブリッジ大学のデリダへの名誉博士号授与に対して、「理性、真理、学問の諸価値への理解しがたい攻撃にすぎない」[38]という反対声明に署名している。
  • リチャード・ローティは『偶発性、アイロニー、連帯』のなかでデリダを批判。
批判というより揶揄したものに、

影響 [編集]

デリダの脱構築の思想は哲学だけにとどまらず、文学理論政治哲学法哲学建築等に影響を与えている。デリダの思想に積極的に関連しているとされる人々のことを、デリダ派(脱構築派)déconstructionniste(仏語), deconstructionist(英語) )あるいはデリディアンDerridien(仏語), Derridian(英語))といい、デリダ派として自身を見なしあるいは見なされている人々には以下がいる。

日本における影響 [編集]

日本では
らが影響をうけ、デリダをひろく知らしめた。ほか、日本におけるデリダ研究者・翻訳者としては、高橋哲哉鵜飼哲増田一夫港道隆らがいる。

著作 [編集]

  • La Voix et le phenomene: introduction au problème du signe dans la phénoménologie de Husserl (1967)
  • De la grammatologie (1967)
  • L'ecriture et la différence (1967)
  • Marges, de la philosophie (1972)
    • 『哲学の余白』 法政大学出版局
  • La Dissémination (1972)
    • 『散種』
  • Glas (1974)
    • 『弔鐘』
  • La Carte postale, de Socrate Freud et au delà (1980)
    • 『絵葉書 I─ソクラテスからフロイトへ、そしてその彼方』 水声社
  • Parages (1986)
    • 『海域』
  • Feu la cendre (1987)
  • Psyché, Inventions de l'autre (1987)
    • 『プシュケー──他者の発明』
  • Mémoires, pour Paul de Man (1988)
    • 『メモワール、ポール・ド・マンのために』
  • Limited Inc.' (1988)
    • 『有限責任会社』 法政大学出版局
  • Le Problème de la genese dans la phénoménologie de Husserl (1990)
    • 『フッサール現象学における発生の問題』 みすず書房
  • Donner le temps 1. La fausse monnaie (1991)
    • 『時間を与える』
  • "Circonfession" in Jacques Derrida (1991)
    • 『割礼告白』
  • Passions (1993)
  • Spectres de Marx: L'etat de la dette, le travail du deuil et la nouvelle Internationale (1993)
  • Politiques de l'amitie: suivi de L'oreille de Heidegger (1994)
    • 『友愛のポリティックス』 みすず書房
  • Force de loi, Le 《Fondement mystique de l'autorit》 (1994)
    • 『法の力』 法政大学出版局
  • Mal d'archive: Une impression freudienne (1995)
    • 『アーカイヴの病―フロイトの印象』 法政大学出版局
  • Résistances, de la psychanalyse (1996)
    • 『精神分析の抵抗―フロイト、ラカン、フーコー』 青土社
  • Echographie de la Télévision (avec Bernard Stiegler, 1997)
    • 『テレビのエコーグラフィー―デリダ<哲学>を語る』(ベルナール・スティグレールとの共著)NTT出版
  • Apories : mourir - s'attendre aux "limites de la vérité”
    • 『アポリア―死す 「真理の諸限界」を“で/相”待‐期する』 人文書院
  • Le Toucher, Jean-Luc Nancy (1998)
    • 『触覚、──ジャン=リュック・ナンシーに触れる』 青土社
  • Donner la mort (1999)
    • 『死を与える』 筑摩書房
  • L'Université sans condition (2001)
  • Papier Machine (2001)
    • 『パピエ・マシン 上 物質と記憶』 筑摩書房
    • 『パピエ・マシン 下 パピエ・ジャーナル』 筑摩書房
  • Voyous: Deux essais sur la raison (2002)
    • 『ならずもの──理性についての二つの試論』
  • Chaque fois unique, la fin du monde, présenté par Pascale-Anne Brault et Michael Naas (2003)
    • 『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉 1』 岩波書店
    • 『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉 2』 岩波書店

対談集
  • Positions (1972)
    • 『ポジシオン』 青土社
  • Sur Parole : Instantanés philosophiques (1999)
    • 『言葉にのって──哲学的スナップショット』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫

映画 [編集]

  • D'ailleurs, Derrida (1999)
    • 『デリダ、異境から』
  • DERRIDA (2002)
    • 『デリダ』

脚注 [編集]

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  1. ^ Geoffrey Bennington, Jacques Derrida, University of Chicago Press, 1999
  2. ^ Obituary in The Guardian, accessed 2 August 2007.
  3. ^ 高橋哲哉『デリダ』講談社
  4. ^ Husserl-Archives Leuven
  5. ^ Maurice de Gandillac ,1906-2006。哲学者でベンヤミン、ヘーゲル「精神哲学」のフランス語訳をした。ネオプラトニズムの研究も行った。エリザベート・ルディネスコの『ジャック・ラカン伝』(藤野邦夫訳、河出書房新社)に記載あり。宇波彰による
  6. ^ デリダはインタビューで自身の哲学者としての履歴を語る時にしばしばチャン・デュク・タオについて言及している。Alan D. Schrift, Twentieth-Century French Philosophy (Key Themes and Thinkers)p120
  7. ^ Jean Cavaillè(1903-1944)。カンギレムはカバイユ伝を1996年に刊行している
  8. ^ のちマルグリット・デリダ。メラニー・クラインやウラジミール・プロップの翻訳なども刊行している。
  9. ^ 高橋哲哉『デリダ』(講談社、1998年)33-36頁。
  10. ^ デリダ・インタビュー「戯れする貴重な自由」現代思想1986年
  11. ^ "The Chronicle of Higher Education", 20 July 2007, 2007.8月閲覧
  12. ^ 高橋哲哉『デリダ』講談社、John Rawlings (1999) Presidential Lectures: Jacques Derrida: Introduction at Stanford University
  13. ^ Deconstruction icon Derrida dies, accessed 2 August 2007.
  14. ^ Positions(1972), p. 5.
  15. ^ Positions (Eng. 1981, pp. 4-5)
  16. ^ 「発生、構造、現象学」『エクリチュールと差異』所収
  17. ^ 「発生、構造、現象学」『エクリチュールと差異』所収
  18. ^ 四方田犬彦『先生とわたし』新潮社、2007年
  19. ^ デリダ『グラマトロジーについて』(邦訳、足立和浩訳、現代思潮社、1971年)
  20. ^ デリダ『グラマトロジーについて』(邦訳、足立和浩訳、現代思潮社、1971年,p20)
  21. ^ デリダ『グラマトロジーについて』(邦訳、足立和浩訳、現代思潮社、1971年,p20)
  22. ^ デリダ『グラマトロジーについて』(邦訳、足立和浩訳、現代思潮社、1971年)
  23. ^ デリダ『グラマトロジーについて』(邦訳、足立和浩訳、現代思潮社、1971年、p174)
  24. ^ ガダマー、デリダ他『テクストと解釈』邦訳、産業図書、1990年
  25. ^ 中山元 哲学クロニクル 第106号,2001年3月31日号
  26. ^ 中山元 哲学クロニクル 第106号,2001年3月31日号
  27. ^ 野村英夫訳、パイデイア1972春号、竹内書店
  28. ^ デリダはフロイトの『夢判断』第三章二節を注で参照している
  29. ^ 野村英夫訳、パイデイア1972春号、竹内書店
  30. ^ 野村英夫訳、パイデイア1972春号、竹内書店、p96
  31. ^ 『狂気の歴史』1972年の増補版に収録
  32. ^ 野村英夫訳、パイデイア1972春号、竹内書店
  33. ^ エリボン『ミシェル・フーコー伝』
  34. ^ “Reality Principles: An Interview with John R. Searle.” Reason.com February 2000 12 May 2008 <http://www.reason.com/news/show/27599.html>
  35. ^ 中山元 哲学クロニクル 第106号,2001年3月31日号
  36. ^ “Reality Principles: An Interview with John R. Searle.” Reason.com February 2000 12 May 2008 <http://www.reason.com/news/show/27599.html>
  37. ^ Barry Smith et al., "Open letter against Derrida receiving an honorary doctorate from Cambridge University," The Times [London], 9 May 1992. [1]
  38. ^ 高橋哲哉『デリダ』
  39. ^ 』(邦訳大和書房、1991、原著Nice Work 1988)
  40. ^ また、同様の揶揄としては、筒井康隆の『文学部唯野教授』があるが、こちらは脱構築へのアイロニカルな揶揄というより、批評理論を使いこなす主人公であり語り手を、ヒューモレスクに描いたものである。
  41. ^ 『ヒューモアとしての唯物論』収録
  42. ^ 他に鵜飼哲浅田彰がシンポジウム出席者/京都大学現代思想自主ゼミ主催:2005年2月『新潮』に「Re-membering Jacques Derrida」として採録

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]